
最近、10年ぶりにこの本を読んだのだが相当グッと来るものがあり涙ぐむことしばしば。
堪えながら読んだのだが・・・・やはり最終章の 33 個人的な別れ で・・・(ToT)・・・・
今更ながら小林信彦の文章力は感心させられた。
凄いよ・・・・マジで・・・
〜〜
渥美 「昔は、二人とも気鋭だったのにねえ」
彼の言葉にはぐさりと来た。
「国民的人気者」と呼ばれる男に、かつて「気鋭だった」と言う言葉はふさわしい。
しかしぼくはそうじゃない。
小林 「気鋭、かね?」
渥美 「そうだよ、頑張って来たじゃないか?お互い、働く世界は違ってたけどさ」
ぼくは納得できなかった。だがそこにこだわるのも大人げない。
〜〜
このように一部抜粋してもほとんどの読者には伝わらないと思う。
だが・・・・世の中にこんなカッコいい再会は万に一つもないだろう。
今後、芸人とテレビ作家が偶然再会しこのような場面が生まれるとは到底考え難い。
小林信彦は本当に幸せ者である。
その死後、このような名著を書かせた渥美清も然り。
一部に「小林信彦の最高傑作では?」
との声もあるが否定できない。
輝ける1960年代初頭に「気鋭だった」二人が長い時を経て新宿の伊勢丹横で偶然、再会したのは奇しくも1988年であった。
希望と栄光の国の幸福な子供たち 前編
〜〜〜
戦後日本最高のヒーローは誰か?
日本史上最高の「役者」は誰か?
日本史上最高の「喜劇人」は誰か?
このような凡俗な疑問に対する私の答えは明白である。
そう、それは
渥美清
に他ならないからだ。
その事実に一体どれ程の人間が気づいているのだろうか?
国家はこれを認めている。
俳優で国民栄誉賞をもらったのは渥美清の他には長谷川一夫と森繁久彌の2人だけである。
だが・・・・平成生まれに限らず35歳以下の日本人は長谷川一夫のことを知らないだろう。
平成世代は森繁久彌のことを知らないだろう。
なんせ上岡龍太郎すら知らないんだから。
だが・・・たとえ渥美清の名を知らなくともこの映画の主人公のことは知っているはずである。

日本映画史上最も「稼いだ」コンテンツはこのシリーズだからである。
全盛期には200万人もの観客を劇場に動員し、これが盆暮れと年に2回もあり文字通り松竹を背負っていた。
宮崎吾朗監督インタビュー 次世代ジブリが目指す“等身大の少年の視点”
>興行収入44.6億円(観客動員355万人)を記録し、11年の日本映画興行ランキングの首位となった『コクリコ坂から』
年2作とは言えこの記録を1970年代初頭から最期の1996年まで25年近くに渡って安定して記録し続けていたのである。
邦画の年間配給収益ベスト10には最期の作品までランクインし年2作撮っていた頃は2作ともランクインすることも珍しい話ではなかった。
1作目から48作目までの総合計観客動員数は、8067万4000人とも言われる。
参考資料 「男はつらいよ」1作〜48作 観客動員数グラフ
なぜこんな偉業が成せたのか?
「寅さん」はある種の日本人の生活にしっかり組み込まれていたからである。
消費者から生活者へ
>? 商品やサービスだけでなく魅力的な背景(生活)を売るべし
>? 売りっぱなしでは駄目
>? 生活に組み込むべし
>この3点を押さえないとどんな分野でも成功を収めることは難しい。
この映画を観ないと年が越せない!!
そうした日本人が全国に数十万人単位で存在していたのだった。
新作の公開が終わっても旧作は浅草などの寂れた映画館で四六時中上映されていた。
劇場だけでなく洋画劇場全盛の時代に「特別企画」と称して年に数回テレビ放映されていたのだが常時20%の視聴率を誇っていたのだからその人気の程がうかがえる。
洋画劇場に限らずテレビの映画番組が廃れてもこのシリーズのは「おいしいコンテンツ」であり続けた。
2001年にテレビ東京が2年半かけて全作を放映したのだが常時15%前後の視聴率を誇りテレ東のドル箱となっていた。
その後、スカパーが放映権を買ったのだがこれまた高い人気を呼んだという。
現在は上記のようにDVDブックになり全国の書店で売られている。
レンタルDVDは日本の何処にでも置いてあり常に全48作中1/3以上が貸し出し中である。
前述の長谷川一夫の出演作品や森繁(なぜか一発変換!)の代名詞「社長シリーズ」がそうなることはなかったし今後もそうだ。
書き出すと長くなるが兎にも角にも日本映画史上最高のパワーコンテンツであったことは疑いようがない。
話を書籍に戻そう。
小林信彦が明らかにしたのは’皆が知らない渥美清’そう
寅さんになる前の渥美清
である。
で、その渥美清は車寅次郎以上に
おかしな男
だったのである。
小林信彦はあとがきにこう記している。
彼は複雑な人物で、さまざまな矛盾を抱え込んでいた。無邪気さと計算高さ。強烈な上昇志向と自信。人間に対して幻想を持たない諦めと、にもかかわらず、人生にある種の夢を持つこと。肉体への暗い不安と猜疑心。非情なまでの現実主義。極端な秘密主義と、誰かに本音を熱く語りたい気持。ストイシズム、独特の繊細さ、神経質さをも含めて、この本の中には、ぼくが記憶する彼のほぼすべてを書いたつもりだ。
映画の寅さんと違うではないか?
さにあらず。
シリーズをしっかり観ればそうした性格は寅さんにも見え隠れするはずだ。
だが・・・一見ではこれは分り難い。
小林信彦がスポットを当てたのは渥美清に内在する
漆黒の闇
の部分だった。
1996年8月4日にこの不世出の役者が突然亡くなっていたことが分った時、テレビは急遽特番が組まれ全てのスポーツ紙の一面を飾り、紙面には美辞麗句が溢れ返りほとんど礼賛ファシズム状態だった。
こうした状況下において小林信彦はただ一人沈黙を守り本著の連載を始めたのは騒動が落ち着いて久しい1997年4月になってからだった。
寅さんになる前の渥美清は業界ではほとんど嫌われ者同然であった。
それは本人の性格的なものもあるが嫉妬渦巻く芸能界においてこの異端児は恐れられていたんだろう。
一回だけ自身の番組の起用して直ぐに降板させた当時の芸人界の’王者’フランキー堺
後輩を執拗にいじめまくり失脚させようと画策しまくった伴淳三郎
ライバル心を剥き出しにしていたハナ肇
人付き合いが悪く時に傲慢な態度を隠さなかったゆえにマスコミ各社の芸能担当者もほとんど敵に回していた。
一方で渥美清を高く評価していた面々もいる。
植木等と藤山寛美、そして御大森繁久弥である。

1964年に刊行された「別冊キネ旬 現代のチャンピオン」に森繁が渥美に向けて書いた寄稿文は大いに胸を打った。
>俺たちは芸商の奴隷ではないのだ。分っているな。
>清よ、頑張れ。

1950年代後半にテレビ界に進出した渥美清にとって1960年代は文字通り’試行錯誤の時代’と言えた。
1962年 初主演映画公開「あいつばかりが何故もてる」
テレビドラマ「大番」主演
この2作品で日本国民に広く知れ渡り
1963年4月28日公開

この映画のヒットで一気に乗るかと思われたが1964年に入ると看板事件を起こしマスコミからバッシングを受けるようになる。
東宝劇団の6月公演に渥美も加わるはずだったのだが松本幸四郎、山本富士子、と同格、三枚看板、つまり看板の名前の大きさが同じではないと嫌だ、と主張して降りたからと言われる。
もはや真相は闇の中だが当時の常識から言えば三枚看板などありえない。
普段から渥美のことをよく思っていなかったマスコミ関係者の充満した何かに火をつけるには十分過ぎるネタだった。
芸人の地位が今とは比較にならないくらい低かった時代の話である。
だが・・・・渥美清が三枚看板にこだわったこともありえないとは言い切れない。
>強烈な上昇志向と自信
渥美に6月公演の話を持ちかけた東宝劇場の演劇部長は「天皇」と称された菊田一夫であり凡百の芸人ならこれで芸能界から抹殺されただろう。
だが・・・・
>無邪気さと計算高さ。
渥美清はこれを持っていた。
当時、’新進気鋭’の映画監督として脚光を浴びていた羽仁進に「一緒に映画を撮りませんか?」と話を持ちかけ映画『ブワナ・トシの歌』の制作をスタートさせ半年に渡るアフリカロケに旅立って行ったのだった。

映画は1965年に公開されたが今も昔も熱しやすく冷めやすい日本人は看板騒動のことなどすっかり忘れていた。
1966年4月17日〜
このドラマの放映が始まる

渥美清の泣いてたまるか
実に多くの伏線が張られた’神ドラマ’である。
>放映日:1968年3月31日 タイトル:男はつらい 脚本:山田洋次、稲垣俊 監督:飯島敏宏 出演者:小坂一也、前田吟、関千恵子、関敬六、高品格、花沢徳衛、川口恵子
このブログを開設してから何度も何度も書いて恐縮だが
>1968年
この年はあらゆる分野で20世紀の’分岐点の年’だ。
それは渥美清も然り。
1968年10月3日〜
連続テレビドラマ『男はつらいよ』の放送開始

前述の「泣いてたまるか」からの引用だが
>渥美は、寅さん風のアウトロー的な役はもちろん、実直な教師役や平のサラリーマン役、更には偽傷痍軍人役等、多岐に渡る役柄を演じきり、役者としての懐の深さを見せた。
元々は役柄を選ばないマルチプレイヤーだったのである。
だが・・・・
>「あいつばかりが何故もてる」
このキャラクターは説得力に欠けていた。

結局これに尽きるだろう。
実際の渥美清は異性にモテるキャラクターだったのだが・・・・
「やっぱり’いい人’だったから?」
ではない。
相当、’悪い男’だったからである。
ハナ肇の警戒心は当たっていた。
1964年

この映画に脇役で出演した渥美清は’熱演’を見せ主演のハナ肇を困惑させた挙句、監督の山田洋次の前で両手を横に引っ張り
今度は長いので一つ
と言って去って行ったと言う。
山田洋次監督の述懐によれば
長いの=主演で
と言う意味だったんだろう。
実力があっても中々ヒット作に恵まれていなかったこの俊英監督の出世作はハナ肇とタッグを組んだ「馬鹿まるだし」でありこれに続く「馬鹿シリーズ」でその地位を確立した。
だが・・・
非凡な人間は誰であれ皆悪人である。
芸能界は仲良しクラブではない。
悪くなきゃのし上がれない
皆、渥美清について知ってるようで知らない。
この役者の「凄み」や「恐ろしさ」もっと言えば「狂気」これに気づいていない。
これについては別項で書きたいと思う。
いずれにせよ日本一モテない、失恋男の代名詞、車寅次郎と言うキャラクターは文字通りの「ハマリ役」であり大鉱脈であり江戸っ子のテキヤと言う設定もあって渥美清以上の説得力はなかった。
男はつらいよ
>このテレビ版はヒットしたが、最終回で寅次郎がハブを取りに行こうとして、逆にハブに噛まれ、毒が回り死んだと言う結末に視聴者から多数の抗議が殺到して、映画化につながった。
車寅次郎、そんな男は世の中に実在しない、虚構、フィクションの人物である。
だが・・・・そう思わない視聴者が日本中に山と居た、いや、作ってしまったのである。
ちなみにその一人が高田文夫その人である。
嘘にリアリティを与える
これが出来た’物語’は超一流の物語である。
シャーロック・ホームズ
最後の事件
>ドイルのホームズものの断筆作となった。この作品の後、ホームズの死を悲しんだロンドン・シティーの金融マンが、喪章をつけて通勤したという噂もある。
フランダースの犬 (アニメ)
>本放送時も、テレビ放送に合わせて出版されていた絵本や児童書で先に結末を知ってしまった視聴者が多かったこともあり、ストーリーが終盤に近づくにつれ、主人公ネロが助かるよう嘆願する手紙がテレビ局に殺到した。その話題性もあって最終回の視聴率はビデオリサーチ・関東地区調べで30.1%を記録。これは「世界名作劇場」枠内アニメの視聴率の最高記録である。
一般的にはTVドラマ版はヒットしたということになっているが事実は微妙に異なる。
実際には視聴率は決して高くなく10%を割ることも多々あったと言う。
局側もこのドラマの真価に気づいておらずそれはテレビ版のマスター・テープが最初と最期の回しか残されていない事でも明らかである。
だが・・・・
妙な思い入れを持って毎週欠かさず熱心に観ていたコアな視聴者
これは他のどのドラマよりも多かった訳だ。
建前上、テレビ界は視聴率至上主義となっているが本音はそうではない。
IPG | G-PRESS インタビュー 加地倫三さん
>無論、テレビ番組はCMスポンサーありきのビジネスなわけですが、必ずしも「視聴率が高い番組=CMスポンサーにとって価値が高い番組」ではないと私は思うのですが。
>視聴率だけを追いかけてしまうと、本当にその番組を見てほしい人たちから見られない番組になってしまうことって、多々あると思うんです。
>CMスポンサーの方たちも、「誰でもいいから1人でも多くの人に見てもらう」よりも、「見て欲しいターゲットに(1人でも多く)見て欲しい」のではないでしょうか。
アメトーク:男はつらいよ芸人
当初、松竹は映画化に乗り気ではなく記念すべき第1作〜4作まで興行収益もトントン程度だった。
ゆえに5作で終わりにするはずだった・・・

だが・・・愚鈍な大衆もこの作品でようやくこの不世出の’国民的映画’の面白さに気がついたのだった。
後は周知の通りである。
駆け出しの頃、フジテレビの関係者の前で
「いつか天下を取ってみせる!」
と豪語したと言われる渥美清だが「男はつらいよシリーズ」の大成功で見事、壮言を実現してみせた。
テレビタレント人気度ベスト5
1973年2月度 1 渥美 清 2 加藤 剛 3 堺 正章 4 山村 聡 5 ザ・ドリフターズ
1973年8月度 1 加藤剛 2 ザ・ドリフターズ 3 山村 聡 4 堺 正章 5 渥美 清
1974年2月度 1 渥美 清 2 加藤 剛 3 五木ひろし 4 山村 聡 5 堺 正章
1974年8月度 1 五木ひろし 2 渥美 清 3 加藤 剛 4 堺 正章 5 山村 聡
1975年2月度 1 渥美 清 2 加藤 剛 3 竹脇無我 4 五木ひろし 5 森繁久弥
1975年8月度 1 渥美 清 2 加藤 剛 3 五木ひろし 4 山村 聡 5 堺 正章
1976年2月度 1 渥美 清 2 加藤 剛 3 萩本欽一 4 山村 聡 5 森繁久弥
1976年8月度 1 加藤 剛 2 萩本欽一 3 渥美 清 4 山村 聡 5 宇津井健
1977年2月度 1 渥美 清 2 加藤 剛 3 萩本欽一 4 森繁久弥 5 石原裕次郎
1977年8月度 1 萩本欽一 2 加藤 剛 3 渥美 清 4 加山雄三 4 森繁久弥
1978年2月度 1 王 貞治 2 渥美 清 3 萩本欽一 4 加藤 剛 5 石原裕次郎
1978年8月度 1 王 貞治 2 石原裕次郎 2 渥美 清 4 加藤 剛 5 加山雄三
1979年2月度 1 王 貞治 2 加藤 剛 3 水谷 豊 4 渡 哲也 5 石原裕次郎
1979年8月度 1 王 貞治 2 渥美 清 2 石原裕次郎 4 加藤 剛 5 萩本欽一
1980年2月度 1 王 貞治 2 渡 哲也 3 萩本欽一 4 渥美 清 5 加藤 剛
1980年8月度 1 王 貞治 2 萩本欽一 3 渥美 清 4 森繁久弥 5 加藤 剛
一般に1970年代の芸能界はドリフターズと萩本欽一の二強時代と言われるがこれは正しくない。
子供目線ではそうだっただろうが全世代から幅広い支持を集めていたのは渥美清だったのである。
60年代渥美清と敵対していたフランキーも伴淳もハナ肇も第一線からは消えていた。
渥美が小林信彦に「どこが面白いのかね?」と疑問を呈した藤田まことに至っては人気が急降下してブラウン管から完全に姿を消していた。
その芸を認めていた藤山寛美も関東ではほとんど知られていないローカルな存在のままだったし植木等も第一線から退いていた。
人気ランキングに登場するのは渥美を擁護して止まず、渥美自身も尊敬の念を隠さなかった森繁だけであった。
芸人だけでなく大岡越前の好演で時代劇二枚目俳優の代名詞的存在だった加藤剛にも圧勝している。
60年代からスターの代名詞だった石原裕次郎ですら敵ではない。
特記したいのは所謂、映画俳優は渥美清だけと言う点である。
とっくのとうに映画は廃れテレビの時代になっていた。
渥美以外のタレントはほとんど全てテレビ界のタレントである。
元映画俳優も活動拠点をテレビに移し毎週毎週テレビに出ていた。
つまり露出度が高かった。
もっと本質的なことを書けばもはや映画だけでは食えなくなっていたのである。
だが・・・渥美だけはその活動拠点はほとんど映画でありそれも60年代の雷蔵や勝新みたいに年に何本も主演しなかった。
最も効率の良い方法で安定した人気を保っていたのである。
渥美清ほど「自己戦略」をしっかり持った役者は居なかっただろう。
日本人の年末行事になっていた紅白歌合戦には1961年から66年迄7年連続でゲストとして’出場’している。
そんな俳優や芸人は一人も居ない。
マスコミに叩かれた1964年もしっかり出場しているから大したものである。
歌の合間に軽い寸劇なりコントなりをやったのだろうが日本全国のお茶の間に自分を売り込むのに紅白歌合戦以上の場があっただろうか?
1961年の渥美清は33歳である。
決して若くない。
しかも結核を患い片肺しかなく体力も劣る。
渥美清が役者の道に入ったのは戦後直ぐの1946年と言われ18歳の頃である。
若い頃から才能はあったがそれが認められるまでに長い年月を要したのである。
ゆえに
効率良くのし上がる方法を誰よりも考えていたんだろう。
そしてある程度の’格’を得たと感じたら紅白にも出なくなったのだった。
渥美が出なくなってからもハナ肇とクレージーキャッツは栄光の紅白歌合戦にゲストで出場していた。
一方、大晦日に渥美清を観たければ映画館に行く必要があった。
1983年1月にはアメリカを代表する雑誌『TIME』に「天皇と並ぶ日本の顔」として紹介され名実ともに’世界の渥美清’になったのだった。
実際の話、昭和天皇が「男はつらいよ」の大ファンだったことは知る人ぞ知る公然の秘密であり「拝啓 天皇陛下様」もまた’嘘から出たまこと’であった。
日本好きの外国人で「男はつらいよ」いや’トラサン’のファンは少なくない。

Otoko wa Tsurai yo
>戦後日本最高のヒーローは誰か?
これが誇張ではないことは分るかと思う。
確かに80年代も半ばになると同じお笑い芸人でもビートたけしや明石家さんま、所ジョージが台頭してくる。
だが、彼らはタレントであってヒーローではない。
無論、スターでもない。
家で気軽に観られるテレビならいざしらず
わざわざ劇場まで足を運んでまで、お金を払ってまで彼らの「芸」を観たいと思う人はどれだけいるだろうか?
つづく