1989年に入って変わってしまったことは他にも多々ある。
ビックリマンは新ビックリマンに発展したが絵柄が激変してしまい直ぐに観なくなってしまった。
と言うより本家ビックリマン・シールがモノ分かりの悪い公正取引委員会の指摘を受けてヘッドを乱発した結果、シールのデフレが起きてブームは一気に終焉してしまったのだった。
ビックリマンにしろキョンシーにしろ光GENJIにしろ10回クイズにしろスライムにしろねるねるねるねにしろカチンカチンにしろ階段下りるスプリングにしろ・・・大小様々なブームが起きては消え、起きては消え・・・・よく言えば新陳代謝があったと言うことだ。
80年代こども大全―なつかしのおもちゃ博覧会 (別冊宝島 1457)クリエーター情報なし宝島社
いずれにせよ
8:30 「新ビックリマン」 ×
9:00 『魔法少女ちゅうかなぱいぱい!』 ×
20:00 「春日局」 ×
により黄金の日曜日は終焉してしまった。
他の曜日に関しても大好きだった「アニメ三銃士」は1989年2月、つまり88年度をもって放映終了してしまった。
「特攻野郎Aチーム」それより一足早く1988年の11月に放映が終了している。
まぁアニメの放映なんて大概半年か1年で終わってしまうものなんだが1988年→89年に移行して私の観るテレビ番組が激減したことは確かだ。
繰り返すが1988年に一つの時代が終わった。
だが万古不易、終わりがあれば始まりがある。
ドラマ「はいすくーる落書き」の放映は1989年1月6日〜からである。
このドラマは東映イズム全快の青春映画
ビー・バップ・ハイスクール [DVD]クリエーター情報なし東映ビデオ
などのおちゃらけ不良モノとは一線を画していたように思う。
まぁ原作はこれですから
はいすくーる落書 (朝日文庫)クリエーター情報なし朝日新聞社
女教師と不良学生の組み合わせと言えば・・・・
そう
ごくせん 2002 DVD-BOXクリエーター情報なしVAP,INC(VAP)(D)
このドラマの元ネタである。
最も重要なのは
>またドラマの世界観と見事にマッチしたTHE BLUE HEARTSの歌う主題歌・「TRAIN-TRAIN」も大ヒットを記録。
Train-Trainクリエーター情報なしトライエム
時代はアイドル・ブームからバンド・ブームへ移行していた訳だ。
ここに至って間抜けな私もメロディだけでなく歌詞にも注視するようになった。
私が日本のロック・バンドの中でTHE BLUE HEARTSとたまを別格的に高く評価するのは自分の感性が一番高かった時に知ったと言うことも大いにあると思う。
ある種、テレビ中毒患者だった私だがこれは麻薬と同じで
それまでと同じクォリティを持った、ないしは上回ったコンテンツ
じゃないと満足出来ない。
だが・・・それはもうかなわないことを知った。
そこでこれ以降は自分で主体性を持って別の楽しみを求めて行くことになる。
テレビを付ければ何かしら楽しい番組がやっている。
そんな呑気な時代は終わってしまったのだから。
だが、今よりも遥かに活気と勢いがあった時代だったので割と簡単に発見できた。
そう、週間少年ジャンプである。
アニメから原作の漫画に移行しただけだが小学4年生になってようやく月に500円とは言えお小遣いが支給されることになり(兄と共同購入だが)週間少年ジャンプが買える様になった訳だ。
1989年の週間少年ジャンプ・・・・
これはこれで空前絶後のコンテンツだった。
書き出すと長くなるから割愛。
そうそう、テレビゲームの話が全く出てこないが親に禁止されていたからである。
で、やはり1989年に入ってようやく許可が下りてファミコンを買ってもらったのだが遅きに失した感は否めなかった。
兄はともかく私がファミコンを欲しがっていたのは幼稚園〜せいぜい小学校2年迄でいささか熱は冷めており嵌ることはなかった。
私がゲームに嵌るのはこれより少し先でゲームボーイ版のテトリスである。
重要なことは
それを欲しいと思ったその時に得られた人は幸福な人間である
と言うことだ。
1988年に私が痛感したのは嘗て左翼関係者が持っていた
ある種の進歩史観
これの否定である。
今よりも未来は必ず良くなっている
少なくともテレビ番組はそうじゃなかったんだから。
1988年の日本は正に「いけいけドンドン」の時代だったので小学生でこれに気づいたのは稀有かも知れない。
未来は分からない。
現在には多少不満がある。
ではどうしたら良いのか?
一つは先に書いたように
分野を変える
ことであり、もう一つは、そう、過去に遡ることである。
それを「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と言う映画が教えてくれたと言うわけ。
他にも伏線はあって当時、東京12チャンネルは毎日午後6時から60年代〜70年代に作られたアニメを再放送しまくっていた。
予算がなかったのが主な理由だろうが、元祖天才バカボン、ドカベン、黄金バット、ハリスの疾風、ベルサイユの薔薇、妖怪人間ベム・・・・錚々たる作品群であり意外に面白かった。
で、何から手をつけようと思っていた矢先、漫画の神様たる手塚治虫大先生が昭和天皇の後を追うように2月9日に亡くなってしまった。
亡くなる間際まで第一線で描いていたが人気漫画家とは言えず半ば忘れ去られていたように思う。
これがその死によってリバイバルが起き、漫画業界はちょっとした手塚ブームが起きて再販が相次いだ。
私もこれを機に兄と両親と共同で手塚作品を買って読んでみた。
これらの作品である。
ブッダ 1 新装版 (Kibo comics)クリエーター情報なし潮出版社
ブラック・ジャック (1) (少年チャンピオン・コミックス)クリエーター情報なし秋田書店
三つ目がとおる(1) (講談社漫画文庫)クリエーター情報なし講談社
確かに、漫画の神様は誇張でないと思った。
ジャンプ漫画とは一線を画していたからである。
手塚治虫以外にも
忍者武芸帳影丸伝 1 復刻版 (レアミクス コミックス)クリエーター情報なし小学館クリエイティブ
や
おろち 1 (ビッグコミックススペシャル 楳図パーフェクション! 4)クリエーター情報なし小学館
恐怖新聞 (1) (少年チャンピオン・コミックス)クリエーター情報なし秋田書店
夕焼けの詩―三丁目の夕日 (1) (ビッグコミックス)クリエーター情報なし小学館
果ては
巨人の星(1) (講談社漫画文庫)川崎 のぼる講談社
なども読んでみた。
「巨人の星」は転校先の小学校の図書館に全巻置いてあった。
何代か前の校長の教育方針だったらしい。
どれもこれも非常に新鮮であり面白かった。
同時代の漫画を読みつつ過去の作品も読んでいたのである。
で、この時点ではどちらも面白く(面白さに関しては)甲乙は付けられなかったと思う。
それくらい当時のジャンプ(というより鳥山明先生が描いていたドラゴンボール)は面白かったんだろう。
『日本の漫画史を変えた作家』、“漫画の神様”手塚治虫が貫禄の1位
幾つかの例外を除いてもうアニメや子供向けの番組には熱中しなくなっていた。
成長もあるだろうが「ちびまる子ちゃん」や「平成天才バカボン」は面白かったんだから一概には言えまい。
だが・・・どちらの作品もレトロ風味の作品だったことは特記したい。
私が1988年と1989年の違いをやたら強調するのは1989年の7月に引っ越しをしたこともあると思う。
昭和時代の私の住まいは上福岡だったが平成時代は同じ埼玉でももっと田舎の方になってしまった。
当然、付き合う友人達は一新される。
草野球をするようになり外で遊ぶことが多くなった。
だが・・・それらを踏まえても1988年と1989年では決定的に違うように思う。
やはり1988年が私にとって大きな分岐点だった。
>スタンド・バイ・ミー
これは1980年代ではなく1960年が舞台の話だ。
全編に渡ってアメリカン・ポップスの古典が流れている。
ロックの偉大なパイオニアたるバディ・ホリーを知ったのはこの映画からである。
>バック・トゥ・ザ・フューチャー
これまた主な舞台は1980年代ではなく1955年である。
番組のハイライトは幾つもあるが、マーティが魅惑の深海パーティでジョニー・B・グッドを演奏する所は最高である。
この映画でこれまたもう一人のロック・ジャイアンツたるチャック・ベリーのことを知った。
同じ時期に違う映画を通して二人のロック・ジャイアンツを知ることになった。
ビートルズを知る前にこの二人の楽曲の魅力に気づけたことは本当に幸運だったと思う。
団塊の世代より下の世代で私のような輩は稀有だから。
と言う訳で音楽もまた現在のヒット曲をチェックしながら過去の音源も探すと言う作業をこの辺から始めて行く訳である。
だが・・・
いつからか現在のコンテンツよりも過去のそれの方が明らかに優れていると思うことが多くなって行く。
それが決定的になるのが恐らく世紀末、1998年頃ではなかっただろうか?
奇しくも1988年から10年後のことだった。
それ以降私は色んな意味で急速に衰えて行くのだった。
だがそれが=宮台真司の言う「終わりなき日常」であり「成熟社会」なんだろう。
あなたは何者なのか?
と問われたら私は
メディア人間だった
と答えるだろう。
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、映画、漫画、アニメ、小説、評論文・・・・あらゆるマスメディアから多大な影響を受けてきたからである。
子供の頃からそれはそれは隈なくチェックしてきたものだ。
私はメディアに何を求めていたのだろうか?
情報だろうか?
知識だろうか?
儲け話だろうか?
さにあらず。
先に物語と書いたがもっと本質的なことを書けば
感動
である。
それも現実世界では得られないような。
それが十分満たされていた時、私は自分のことを幸福だと思えたんだろう。
反対にメディアコンテンツから感動が得られることが難しくなったので自分のことを幸福だと思えなくなったんだろう。
メディアに期待しなくなった私はまずは雑誌を買うことを止め、映画館に行くことをやめ、ヒットチャートや新譜をチェックすることをやめCDやレコードを買うことをやめ、テレビを観ることが激減ししまいには地デジ移行を機にテレビそのものを撤去してしまった。
携帯にワンセグはあるが滅多に観ない。
今、こうしてインターネットはやっているが正直言ってそのクォリティなど知れている。
感動など滅多に得られない
それが現状である。
そもそも受信者だった私が発信者になっているのはチャンチャラおかしいと思う。
私はもう新しいメディアコンテンツをほとんど欲していない。
さっぱり「面白さ」が分からないからだ。
反対に良く分かるのは「稚拙さ」「底の浅さ」「焼き直し」「チャチさ」であり「矮小化」である。
ゆえに私が欲しているのは過去に放映されたドラマでありアニメであり映画である。
まだDVD化されていない作品は山のようにある。
それを全て消化するだけで10年近くかかるのではないだろうか?
いずれにせよ、メディア人間が良質のメディアコンテンツを自己消化できなくなった時、それは半分死んだようなものなのだ。
失望は期待の大きさに比例する
18歳以降の私は終始不機嫌そうで情緒不安定で時に苦虫を噛み潰したような表情をするらしい。
中学の同窓のムックは私に散々絡まれたこともあってそう言っていた。
さもあらん。
その理由だがやはり1988年に全身で体感したテレビ番組群にも原因があるかと思う。
当時、私が大好きだった番組のほとんどは子供向け番組だったからか
大人社会をかなり否定していたように思う
製作者は大人だったにも関わらず。
例えばおそ松君の主題歌なんてどうだろう?
このように非常にシニカルだ。
この歌の作詞を担当したのは秋元康であることは興味深い。
一方、当時の私がもっとも楽しみにしていたじゃあまん探偵団魔隣組のエンディング・ソングは秀逸だが・・・
>やさしい眼で、耳をかたむけてくれるよ、僕らのミステリー
>子供の頃、あなたの夢も、誰か聞いてくれたように
>風をつれた少年、おとなにかわる瞬間を止めたままで、あなたは笑いかける
>僕らもそんな、不思議なおとなになりたい、憧れミステリー
>夢を食べて生きられる秘密、きっと捜しだしてみせる
やはり大人になることを拒否しているように感じる。
「夢を食べて生きられる秘密」を探し出せなければどうなってしまうのだろうか?
この動画を観てグッと来ないアラサーって居るんだろうか?
グッと来ると言えば
>おいでファンタージー好きさミステリー君の若さ隠さないで
>不思議したくて冒険したくて誰もみんなウズウズしてる
>大人のフリしてあきらめちゃ
>奇跡の謎など
>解けないよ
>もっとワイルドにもっとたくましく生きてごらん
>ロマンティックあげるよロマンティックあげるよ
>ホントの勇気見せてくれたら
>ロマンティックあげるよロマンティックあげるよ
>トキメク胸に
>キラキラ光った
>夢をあげるよ
とんでもない哀愁ないしは郷愁に襲われるがやはりここでも大人は否定的に歌われている。
大人とは=諦めること
だからである。
「夢を食べて生きられる秘密」に対し「奇跡の謎」が登場するが似たようなもんだろう。
光GENJIの楽曲も然り。
>大人は見えない しゃかりきコロンブス 夢の島までは 探せない
言わんと欲していることは「憧れミステリー」や「ロマンティックあげるよ」とほとんど同じであり、パラダイス(楽園)であれ夢の島であれ大人は住めないと言うことである。
大人の否定
これは裏を解すと若さの肯定である。
日本国自体が若く活気があったからだろう。
ゆえに前述したアニメ三銃士の主題曲「夢冒険」も光GENJI最大のヒット曲である「パラダイス銀河」も甲子園選抜高等学校野球大会の入場曲に採用されている。
ただの特撮のエンディングソングじゃないか?
アニソンじゃないか?
ジャニソンじゃないか?
そう言うのは勝手だが私はそれ以上の何かがあったと思う。
実際には1988年当時の日本の大人は元気いっぱいでバリバリに輝いていた。
なんせバブル景気の真っ只中、1991年にバブルは崩壊するのだがこの時点では未来永劫続き21世紀には
ジャパン・アズ・ナンバーワンクリエーター情報なし阪急コミュニケーションズ
の時代が到来すると信じきっていたから。
だが・・・・
少なくないメディア関係者は経済力云々など関係なく大人なんてそんないいもんじゃない、ってことを知っていたんだろう。
実はこのメッセージは子供時代の私にはぼんやりとしか届いていなかった。
子供ながらにバブルと言うより日本の経済力と技術力を信じており、何より映画は劣る部分はあれどドラマやアニメ、特撮などは負けていないと信じていたからである。
私の家は決して裕福ではなかったが、素晴らしい国に生まれたと本気で思っていた。
自分は希望と栄光の国に生きる幸福な子供の一人だと信じていた。
終わり
ビックリマンは新ビックリマンに発展したが絵柄が激変してしまい直ぐに観なくなってしまった。
と言うより本家ビックリマン・シールがモノ分かりの悪い公正取引委員会の指摘を受けてヘッドを乱発した結果、シールのデフレが起きてブームは一気に終焉してしまったのだった。
ビックリマンにしろキョンシーにしろ光GENJIにしろ10回クイズにしろスライムにしろねるねるねるねにしろカチンカチンにしろ階段下りるスプリングにしろ・・・大小様々なブームが起きては消え、起きては消え・・・・よく言えば新陳代謝があったと言うことだ。

いずれにせよ
8:30 「新ビックリマン」 ×
9:00 『魔法少女ちゅうかなぱいぱい!』 ×
20:00 「春日局」 ×
により黄金の日曜日は終焉してしまった。
他の曜日に関しても大好きだった「アニメ三銃士」は1989年2月、つまり88年度をもって放映終了してしまった。
「特攻野郎Aチーム」それより一足早く1988年の11月に放映が終了している。
まぁアニメの放映なんて大概半年か1年で終わってしまうものなんだが1988年→89年に移行して私の観るテレビ番組が激減したことは確かだ。
繰り返すが1988年に一つの時代が終わった。
だが万古不易、終わりがあれば始まりがある。
ドラマ「はいすくーる落書き」の放映は1989年1月6日〜からである。
このドラマは東映イズム全快の青春映画

などのおちゃらけ不良モノとは一線を画していたように思う。
まぁ原作はこれですから

女教師と不良学生の組み合わせと言えば・・・・
そう

このドラマの元ネタである。
最も重要なのは
>またドラマの世界観と見事にマッチしたTHE BLUE HEARTSの歌う主題歌・「TRAIN-TRAIN」も大ヒットを記録。

時代はアイドル・ブームからバンド・ブームへ移行していた訳だ。
ここに至って間抜けな私もメロディだけでなく歌詞にも注視するようになった。
私が日本のロック・バンドの中でTHE BLUE HEARTSとたまを別格的に高く評価するのは自分の感性が一番高かった時に知ったと言うことも大いにあると思う。
ある種、テレビ中毒患者だった私だがこれは麻薬と同じで
それまでと同じクォリティを持った、ないしは上回ったコンテンツ
じゃないと満足出来ない。
だが・・・それはもうかなわないことを知った。
そこでこれ以降は自分で主体性を持って別の楽しみを求めて行くことになる。
テレビを付ければ何かしら楽しい番組がやっている。
そんな呑気な時代は終わってしまったのだから。
だが、今よりも遥かに活気と勢いがあった時代だったので割と簡単に発見できた。
そう、週間少年ジャンプである。
アニメから原作の漫画に移行しただけだが小学4年生になってようやく月に500円とは言えお小遣いが支給されることになり(兄と共同購入だが)週間少年ジャンプが買える様になった訳だ。
1989年の週間少年ジャンプ・・・・
これはこれで空前絶後のコンテンツだった。
書き出すと長くなるから割愛。
そうそう、テレビゲームの話が全く出てこないが親に禁止されていたからである。
で、やはり1989年に入ってようやく許可が下りてファミコンを買ってもらったのだが遅きに失した感は否めなかった。
兄はともかく私がファミコンを欲しがっていたのは幼稚園〜せいぜい小学校2年迄でいささか熱は冷めており嵌ることはなかった。
私がゲームに嵌るのはこれより少し先でゲームボーイ版のテトリスである。
重要なことは
それを欲しいと思ったその時に得られた人は幸福な人間である
と言うことだ。
1988年に私が痛感したのは嘗て左翼関係者が持っていた
ある種の進歩史観
これの否定である。
今よりも未来は必ず良くなっている
少なくともテレビ番組はそうじゃなかったんだから。
1988年の日本は正に「いけいけドンドン」の時代だったので小学生でこれに気づいたのは稀有かも知れない。
未来は分からない。
現在には多少不満がある。
ではどうしたら良いのか?
一つは先に書いたように
分野を変える
ことであり、もう一つは、そう、過去に遡ることである。
それを「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と言う映画が教えてくれたと言うわけ。
他にも伏線はあって当時、東京12チャンネルは毎日午後6時から60年代〜70年代に作られたアニメを再放送しまくっていた。
予算がなかったのが主な理由だろうが、元祖天才バカボン、ドカベン、黄金バット、ハリスの疾風、ベルサイユの薔薇、妖怪人間ベム・・・・錚々たる作品群であり意外に面白かった。
で、何から手をつけようと思っていた矢先、漫画の神様たる手塚治虫大先生が昭和天皇の後を追うように2月9日に亡くなってしまった。
亡くなる間際まで第一線で描いていたが人気漫画家とは言えず半ば忘れ去られていたように思う。
これがその死によってリバイバルが起き、漫画業界はちょっとした手塚ブームが起きて再販が相次いだ。
私もこれを機に兄と両親と共同で手塚作品を買って読んでみた。
これらの作品である。



確かに、漫画の神様は誇張でないと思った。
ジャンプ漫画とは一線を画していたからである。
手塚治虫以外にも

や



果ては

なども読んでみた。
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どれもこれも非常に新鮮であり面白かった。
同時代の漫画を読みつつ過去の作品も読んでいたのである。
で、この時点ではどちらも面白く(面白さに関しては)甲乙は付けられなかったと思う。
それくらい当時のジャンプ(というより鳥山明先生が描いていたドラゴンボール)は面白かったんだろう。
『日本の漫画史を変えた作家』、“漫画の神様”手塚治虫が貫禄の1位
幾つかの例外を除いてもうアニメや子供向けの番組には熱中しなくなっていた。
成長もあるだろうが「ちびまる子ちゃん」や「平成天才バカボン」は面白かったんだから一概には言えまい。
だが・・・どちらの作品もレトロ風味の作品だったことは特記したい。
私が1988年と1989年の違いをやたら強調するのは1989年の7月に引っ越しをしたこともあると思う。
昭和時代の私の住まいは上福岡だったが平成時代は同じ埼玉でももっと田舎の方になってしまった。
当然、付き合う友人達は一新される。
草野球をするようになり外で遊ぶことが多くなった。
だが・・・それらを踏まえても1988年と1989年では決定的に違うように思う。
やはり1988年が私にとって大きな分岐点だった。
>スタンド・バイ・ミー
これは1980年代ではなく1960年が舞台の話だ。
全編に渡ってアメリカン・ポップスの古典が流れている。
ロックの偉大なパイオニアたるバディ・ホリーを知ったのはこの映画からである。
>バック・トゥ・ザ・フューチャー
これまた主な舞台は1980年代ではなく1955年である。
番組のハイライトは幾つもあるが、マーティが魅惑の深海パーティでジョニー・B・グッドを演奏する所は最高である。
この映画でこれまたもう一人のロック・ジャイアンツたるチャック・ベリーのことを知った。
同じ時期に違う映画を通して二人のロック・ジャイアンツを知ることになった。
ビートルズを知る前にこの二人の楽曲の魅力に気づけたことは本当に幸運だったと思う。
団塊の世代より下の世代で私のような輩は稀有だから。
と言う訳で音楽もまた現在のヒット曲をチェックしながら過去の音源も探すと言う作業をこの辺から始めて行く訳である。
だが・・・
いつからか現在のコンテンツよりも過去のそれの方が明らかに優れていると思うことが多くなって行く。
それが決定的になるのが恐らく世紀末、1998年頃ではなかっただろうか?
奇しくも1988年から10年後のことだった。
それ以降私は色んな意味で急速に衰えて行くのだった。
だがそれが=宮台真司の言う「終わりなき日常」であり「成熟社会」なんだろう。
あなたは何者なのか?
と問われたら私は
メディア人間だった
と答えるだろう。
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、映画、漫画、アニメ、小説、評論文・・・・あらゆるマスメディアから多大な影響を受けてきたからである。
子供の頃からそれはそれは隈なくチェックしてきたものだ。
私はメディアに何を求めていたのだろうか?
情報だろうか?
知識だろうか?
儲け話だろうか?
さにあらず。
先に物語と書いたがもっと本質的なことを書けば
感動
である。
それも現実世界では得られないような。
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感動など滅多に得られない
それが現状である。
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さっぱり「面白さ」が分からないからだ。
反対に良く分かるのは「稚拙さ」「底の浅さ」「焼き直し」「チャチさ」であり「矮小化」である。
ゆえに私が欲しているのは過去に放映されたドラマでありアニメであり映画である。
まだDVD化されていない作品は山のようにある。
それを全て消化するだけで10年近くかかるのではないだろうか?
いずれにせよ、メディア人間が良質のメディアコンテンツを自己消化できなくなった時、それは半分死んだようなものなのだ。
失望は期待の大きさに比例する
18歳以降の私は終始不機嫌そうで情緒不安定で時に苦虫を噛み潰したような表情をするらしい。
中学の同窓のムックは私に散々絡まれたこともあってそう言っていた。
さもあらん。
その理由だがやはり1988年に全身で体感したテレビ番組群にも原因があるかと思う。
当時、私が大好きだった番組のほとんどは子供向け番組だったからか
大人社会をかなり否定していたように思う
製作者は大人だったにも関わらず。
例えばおそ松君の主題歌なんてどうだろう?
このように非常にシニカルだ。
この歌の作詞を担当したのは秋元康であることは興味深い。
一方、当時の私がもっとも楽しみにしていたじゃあまん探偵団魔隣組のエンディング・ソングは秀逸だが・・・
>やさしい眼で、耳をかたむけてくれるよ、僕らのミステリー
>子供の頃、あなたの夢も、誰か聞いてくれたように
>風をつれた少年、おとなにかわる瞬間を止めたままで、あなたは笑いかける
>僕らもそんな、不思議なおとなになりたい、憧れミステリー
>夢を食べて生きられる秘密、きっと捜しだしてみせる
やはり大人になることを拒否しているように感じる。
「夢を食べて生きられる秘密」を探し出せなければどうなってしまうのだろうか?
この動画を観てグッと来ないアラサーって居るんだろうか?
グッと来ると言えば
>おいでファンタージー好きさミステリー君の若さ隠さないで
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「夢を食べて生きられる秘密」に対し「奇跡の謎」が登場するが似たようなもんだろう。
光GENJIの楽曲も然り。
>大人は見えない しゃかりきコロンブス 夢の島までは 探せない
言わんと欲していることは「憧れミステリー」や「ロマンティックあげるよ」とほとんど同じであり、パラダイス(楽園)であれ夢の島であれ大人は住めないと言うことである。
大人の否定
これは裏を解すと若さの肯定である。
日本国自体が若く活気があったからだろう。
ゆえに前述したアニメ三銃士の主題曲「夢冒険」も光GENJI最大のヒット曲である「パラダイス銀河」も甲子園選抜高等学校野球大会の入場曲に採用されている。
ただの特撮のエンディングソングじゃないか?
アニソンじゃないか?
ジャニソンじゃないか?
そう言うのは勝手だが私はそれ以上の何かがあったと思う。
実際には1988年当時の日本の大人は元気いっぱいでバリバリに輝いていた。
なんせバブル景気の真っ只中、1991年にバブルは崩壊するのだがこの時点では未来永劫続き21世紀には

の時代が到来すると信じきっていたから。
だが・・・・
少なくないメディア関係者は経済力云々など関係なく大人なんてそんないいもんじゃない、ってことを知っていたんだろう。
実はこのメッセージは子供時代の私にはぼんやりとしか届いていなかった。
子供ながらにバブルと言うより日本の経済力と技術力を信じており、何より映画は劣る部分はあれどドラマやアニメ、特撮などは負けていないと信じていたからである。
私の家は決して裕福ではなかったが、素晴らしい国に生まれたと本気で思っていた。
自分は希望と栄光の国に生きる幸福な子供の一人だと信じていた。
終わり