The Who - My Generation Land Of Hope And Glory 1966
これから書く話はいつも以上に読者の理解を得られないかも知れない。
最初にそう断っておく。
私は何か記事を書く際には必ず周囲の人間にそれとなく話して意見を求めるかネット上でキーワード検索して第三者の意見を参考にするからである。
だが・・・ 今回書くネタに関してはこれまでも10人以上の周りの連中、それも私と同い年の連中に聞いたが同意はほとんど得られなかった。
共通体験の話だと思っていたが現在の私の周りでは誰一人 同じ体験をしなかった からである。
当然、共通意識を持つことは出来なかった。
一体全体何の話だと言うのか?
あの輝ける伝説の年 1988年の話 である。
〜〜〜
私は二つの「時代の節目」と言うか二つの「時代の終焉」これを体感した最期の世代の一人だ。
一つは 昭和の終焉 であり、もう一つは 20世紀の終焉 である。
1988年は昭和63年であり昭和と言う時代が実質的に終焉した年であった。
だが・・・昭和最期の年、この国は戦後最大の輝きを見せたのである。
何においてなのか?
武田信玄 これぞ正真正銘の大河ドラマ!!
1988年の南野陽子
一つはテレビである。
この年、この国のテレビ界はある種のピークに達したと私は確信している。
大河ドラマ武田信玄だけでなく
NHK連続テレビ小説 『ノンちゃんの夢』 『純ちゃんの応援歌』
『もっとあぶない刑事』(日本テレビ系)
『とんぼ』(TBS系)
『教師びんびん物語』(フジテレビ系)
『はぐれ刑事純情派』(テレビ朝日系)
『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(※1985年4月14日〜)
『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』(※1986年5月2日〜)
『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』(日本テレビ系)
『クイズ!年の差なんて』(フジテレビ系)
『とんねるずのみなさんのおかげです』(フジテレビ系)
『探偵!ナイトスクープ』(朝日放送)
これらの番組は高視聴率をマークし人々の記憶に残っただけでなくその後も長く続いたことはご存知と思う。
だが・・・当時、9歳だった私は流石に全ては観ていなかった。
では何を観ていたと言うのか?
特撮
『じゃあまん探偵団 魔隣組』(フジテレビ系)
『超獣戦隊ライブマン』(テレビ朝日系)
『世界忍者戦ジライヤ』(テレビ朝日系)
『仮面ライダーBLACK RX』(毎日放送系)
『電脳警察サイバーコップ』(日本テレビ系)
アニメ
『ドラゴンボール』(※1986年2月26日〜)
『アニメ三銃士』(※1987年10月9日〜)
『ゲゲゲの鬼太郎』
『ビックリマン』
『闘将!!拉麺男』
『小公子セディ』
『おそ松くん』
『つるピカハゲ丸くん』
『燃える!お兄さん』
『キテレツ大百科』
『新まんがなるほど物語』
『トランスフォーマー 超神マスターフォース』
『ホワッツマイケル』
『トッポジージョ』
『ビリ犬』
『それいけ!アンパンマン』
『夢みるトッポジージョ』
『ひみつのアッコちゃん』
『美味しんぼ』
である。
実際には当時放映されていたアニメは上記の2倍以上もある。
1980年代は団塊ジュニア世代が大量に居たので 子供の時代 だったからである。
80年代こども大全集 (別冊宝島) (別冊宝島 1765 カルチャー&スポーツ)クリエーター情報なし宝島社
特撮もアニメも純粋に子供たちのために作られていた。
ゆえにそのクォリティは今とは比較にならないくらい高かったのである。
アニメの主題歌一つとっても然り。
子供の頃から朝が滅茶苦茶弱かった私は休日は10時頃まで寝ていた。
だが・・・・そんな私が1987年の秋頃から朝の8時に起きるようになった。
そう、テレビを観るために、である。
当時、我々の心をガッチリ掴んだビックリマンシールがアニメ化されたからである。
お菓子のおまけがアニメ化される 順序が逆な気がするがそんな時代だった。
当初、『新メイプルタウン物語 パームタウン編』と15分ずつ時間を分け合っていたが最終的にはビックリマンが30分の枠を勝ち取った。
お菓子のおまけから作られたアニメにしてはやたらクォリティが高かったからである。
ここでこの記事をおさらいしたい。
フラット化する社会 物語の終焉
>私はモノや人や社会に何を求めていたのだろうか?
>それは
>物語
>に他ならない。
>プラモデルやゲームに物語を求め、ビックリマンシールにも、ミニ四駆にも胸がワクワクする様な物語を求めていた。
ここに繋がる。
そういう時代に生まれ育ったからである。
ビックリマン人気に負けてしまったがメイプルタウン物語もそれはそれはクォリティの高い’物語’であった。
主題歌も然り。
もうこの国にはこういう素晴らしい楽曲を書ける音楽家は一人も居ないでしょう。
1988年の日曜日 それは日本史上最強の日曜日だったと思う。
いつか私は
'The Best Sundy I have never experienced'
と言う楽曲を書こうと思っている。
それはさておき8:30〜のビックリマン(テレ朝)以降は
9:00 『じゃあまん探偵団 魔隣組』(フジ)
9:30 『世界忍者戦ジライヤ』(テレ朝)
10:00 『仮面ライダーBLACK RX』(TBS)
10:30 『電脳警察サイバーコップ』(日テレ)
と各局バッティングを避けて居たのが良く分かる。
いずれにせよハイクォリティの子供向け番組が延々昼の11時まで続いたのである。
これは後にも先にもなく 空前絶後 の事態だったと思う。
その理由は追々説明したい。
後で知ったのだが地方によっては当時、この流れで放映されなかったようでゆえに同じ世代でも話が合わなかったんだろう。
ちなみに『仮面ライダーBLACK RX』の主題歌も秀逸の完成度だった。
いずれにせよ、毎週毎週、朝から昼まで2時間半もテレビにかじりついていたことは後にも先にもなかった。
それくらい面白かったからである。
日曜日は大河ドラマ武田信玄も観ていたので恐らく4時間はテレビを観ていたことと思う。
他の曜日も日曜日程ではないにしろ面白いテレビ番組にこと欠かなかった。
例えば木曜日は
19:30 来来!キョンシーズ
だった。
香港映画「霊玄道士」の亜流である「幽幻道士」のTV版だがキョンシー&テンテン人気は凄まじいものがあり当然、この人気を支えていたのは我々小学生だった。
子供たちの社交場である駄菓子屋に行くとテンテンのブロマイドやキョンシーのお札などのグッズが並んでいた。
亜流映画のパチモン・・・・
もはや何でもありだった。
金曜日は
19:30 『アニメ三銃士』
20:00 『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』
の流れだったし 土曜日は
15:00 特攻野郎Aチーム
16:00 ワールドプロレスリング
の流れだった。
完全週休二日制でなかった当時、この流れは小学生か帰宅部の中高生しか観られなかったと思う。
現在、35歳前後のお笑い芸人にプロレス好きが多いのはこれも理由の一つだろう。
何だ、テレビ好き目線だけの話か・・・・
さにあらず。
1988年と言う年は’社会現象’に事欠かない年だったからである。
一つは光GENJIだろう。
>おニャン子クラブが解散した1987年にデビューし、1980年代末期を代表する男性7人組。テレビ等では伝説のアイドル・最後のスーパーアイドル・などと称される。
>1988年1月に発売したビデオ「太陽がいっぱい 光GENJI」は約30万本を販売。 当時の日本のビデオソフトとしては最大の売り上げを記録した。
>1988年のオリコン年間シングルチャートで「パラダイス銀河」「ガラスの十代」「Diamondハリケーン」が1・2・3位を独占するという、1978年のピンク・レディー以来の快挙を成し遂げた。
>また、1stアルバムの「光GENJI」も同年のオリコン年間アルバムチャートの第1位に輝いている。
>「明星(現Myojo)」の歴史の中で最高の売上部数を記録したのは、光GENJIの絶頂期だった。光GENJIの人気がピークを過ぎて、SMAPが人気を獲得するまでの数年間、「明星」は苦難の時代だった。
実は我々はデビューした1987年から、つまり小学2年生それも男子にも関わらずこの不世出のアイドル・グループに注視し熱中していた。
ジャニーズ事務所がターゲットにしたのは女子中高生だったんだろうが実際にはもっと下の世代、それも男子もまたハマっていたのである。
光GENJIは実に小学生男子受けするアイドル・グループだった。
・ローラースケートを履きながら歌う
・バック転&バック宙の多用
・歌の途中に服を脱いで半裸になる
受けない理由を探す方が困難である。
こうした需要には必ず供給が発生する。
駄菓子屋に行くとキョンシーの時と同じく光GENJIのブロマイドが大量に置いてあった。
光GENJIの特集記事は何も明星だけでなく我々が読む「小学三年生」にもしょっちゅう載っていた。
1987年〜88年にかけて埼玉県上福岡市の某小学校に’エア光GENJIユニット’が居たことを記憶している者は少ない。
当時、歌番組の多くが所謂、口パクであることは公然の秘密だったがとっくに我々にも漏れていた。
音頭を取った自称’かーくん’宅のそれも畳の間でCDを流しながら口をパクパクし半裸で踊り狂う我々こそ正真正銘の’あぶない少年’だっただろう。
なんせ“超新星からのメッセージ”をしっかり受信してしまったのだから。
だが我々の壮大な’夢’は
「あんたたち、何やってるの!!畳が駄目になるでしょ!!」
と言う万古不易、’男の浪漫’に無理解な生物に一喝され粉砕される。
当時、担任だった女教師はそんな我々を見てこう言う。
「自分たちの歌っている歌詞の意味分かってるの?」
「分かりません」
「この歌は恋人同士が別れる時の話なんだよ?」
>言わないで 言わないで さよならは間違いだよ
さもあらん。
だが当時はそんなことどうでも良かった。
どうでも良いと言えば
当時、私が大好きだった楽曲の一つだが中間部のラップ調の「語り」これを正確に歌える輩は皆無だった。
私はいつもテキトーにでっち上げて歌っていたように思う。
>ありがとう君を待っていた
ここさえ合っていれば万事OKだった。
重要なことは
>1978年のピンク・レディー以来の快挙を成し遂げた。
その10年前、小学低学年の女の子が身体にバスタオルを巻いて歌った真逆のことが1988年に起きていたと言うことだ。
子供ほど世相の情報に敏感な存在はいない!
今年のお正月に3歳の姪っ子がヘビーローテーションを振りつけ付きのアカペラで歌ったのを観て痛感した次第である。
ただ現在のAKB人気と光GENJIのそれは決定的に違うと私は思う。
第一に光GENJIのブームは 滅茶苦茶迅速だった。
1 1987年8月19日 STAR LIGHT /ROLLING STOCK 1位
2 1987年11月26日 ガラスの十代 /Graduation 1位
3 1988年3月9日 パラダイス銀河 /LONG RUN 1位
4 1988年6月21日 Diamondハリケーン /Welcome 1位
5 1988年10月10日 剣の舞 /涙の輝き 1位
デビューして即大ブレイクだったから。
そしてファンの熱狂ぶりは
文字通り’ファナスティック’=狂信的 だったように思う。
>毎年バレンタインデーになると大型トラックで数十台分ものチョコレートが送られた。事務所にトラックが到着する映像はこの時代の歌番組の風物詩になっていた。後に『たかじん胸いっぱい』で諸星が4tトラックに38台分だと語っている。それは武道館の1Fを埋め尽くし2Fから取れるほどだった。
だが・・・日本人は熱しやすく冷めやすい。
光GENJIのピークは1988年であり1989年になるとブームは一気に終焉に向かっていく。
光GENJIへ―元フォーリーブス北公次の禁断の半生記クリエーター情報なしデータハウス
この本の影響もあっただろうが一番の理由は
楽曲のクォリティが維持できなかった。
これだろう。
その辺の話は以前書いた「たま」と似ている。
初期の光GENJIの楽曲を手がけたのは飛鳥涼だったがその楽曲のクォリティの高さは否定しようがない。
>光GENJIに提供した「STAR LIGHT」「ガラスの十代」「パラダイス銀河」の立て続けの大ヒットによりその名を不動のものとした。
飛鳥涼は光GENJIに楽曲を提供し社会現象を起こしたのだが自身もまた不動の名声を確立したのである。
1988年3月9日発売の「パラダイス銀河」を光GENJIのピークとする識者は少なくない。
パラダイス銀河 〜 Diamond ハリケーン
>光GENJIの最大のヒット曲。EP盤・シングルCD・シングルカセットの3種メディアが同時発売された。発売当時、あまりの人気のためほとんどの店でレコードが入荷と同時に売り切れてしまい、新聞紙上にお詫びの広告が掲載されたほどだった。
>1988年末には第30回日本レコード大賞を受賞
AKB48が6年かかったことをたった1年で達成してしまったのである。
だが・・・当時のレコ大は現在よりも遥かに難易度が高く価値もあったことは特記しておきたい。
>音楽番組『ザ・ベストテン』及び日本テレビの音楽番組『歌のトップテン』の年間チャートでは、2位となった[2]。
光GENJI旋風が吹き荒れる1988年、歌番組の年間チャート1位を制したのは誰が歌うどんな楽曲だったのか?
これである
当時、27歳だった田原俊彦は我々にとっては完全に「大人」の存在だった。
若者ではない。
大人である。
それは
>『教師びんびん物語』(フジテレビ系)
彼がドラマの役とはいえ教師だったからだろう。
このドラマは言うならば「金八先生」の小学校版であり主な視聴者は子供だったからである。
だが・・・そのダンスのキレは凡百の教師は勿論、光GENJIの比ではなかったし歌唱力も然り。
当時、私はダンスが上手いか否か?を決めるのにマイケル・ジャクソンのムーン・ウォークを判断材料にしていた。
何度やっても1mmも近づかなかったからである。
私が知る限り当時、日本人で出来たのは田原俊彦とコロッケだけだった。
ゆえに田原俊彦を高く評価していたんだと思う。
実に単純な理由だがこれは当たっていたと今でも思う。
この動画では分かりづらいがベストテンで文字通りのベスト・パフォーマンスを見せたことは知ってる人はご存知と思う。
動画サイトで激賞の嵐になったことは記憶に新しい。
「抱きしめてTONIGHT」は3人編成だったのだがバックダンサー2人と田原俊彦のダンスの差は歴然としていた。
ちなみにこのバックダンサー2人の本業は板前か何かでその辺のエピソードも歌番組においてお馴染みになっていた。
そう、私はテレビが大好きだったし、中でも歌番組が大好きで一種の歌謡オタクだったんだと思う。
実際の話、1988年の日本の歌謡曲は名曲は少なくない。
1988年のヒット曲 (昭和63年)
長渕剛の「とんぼ」や「乾杯」
瀬川瑛子の「命くれない」
などアーティストの十八番になったりスタンダードになった曲がこの年誕生している。
ただ演歌は別としてポップスはこの年以降更に名曲&ヒット曲が増えていく。
歌謡曲は死語になったがJ-Popがこれに代わって台頭していくからだ。
本線から外れるので軌道修正。
我々世代は最新の流行を敏感にキャッチすることに長けており多分にませていた。
それは田原俊彦も然りでテレビドラマで彼の魅力に気づきファンになり実際にコンサート会場に足を運んだ連中も少なくなかったと言う。
これには田原俊彦自身がびっくりしていたくらいである。
それから数年後、同様のことが「たま」のコンサートでも見受けられたと言う。
1988年はソウルオリンピックが開催された年でもある。
ゆえにスポーツ界も話題に事欠かなかった。
フローレンス・ジョイナーは一躍、時の人となったしカール・ルイスVSベン・ジョンソンに対決は世界中の注目を集めた。
対決が終わった後も・・・・
旧ソ連邦並びにその衛生国家が出場した最期のオリンピックであり最期の米ソ代理戦争だったかも知れない。
プロ野球界は正に西武ライオンズの黄金時代であり埼玉県民にとって実に素晴らしい時代であった。
一方で分岐点であり南海ホークスと阪急ブレーブスがなくなった年であり東京ドームが開場した年でもある。
これ以降ドーム付き球場が一般化していく。
東京ドームと言えば史上最強のボクサーとして名高いマイク・タイソンが3月21日にトニー・タッブスと対戦し2R KO勝ちを収めている。
客席には史上最高のボクサーたるモハメド・アリが居た。
モータースポーツに目を向ければF1はアイルトン・セナとマクラーレン・ホンダの時代だった。
とまぁ知った風に書いて来たが当時の私はそれ程スポーツには関心が高くなかった。
野球少年になるのはこれより少し先である。
テレビ、音楽ときたら・・・ そう映画である。
この年ヒットした映画は何だったのか?
1988年(1月〜12月)
正直、言ってラストエンペラー以外それ程重要ではない。
ランキング圏外の映画、例えば
となりのトトロ
>1988年4月16日に東宝系で日本公開された。観客動員数は約80万人。封切り時の併映は高畑勲監督作品『火垂るの墓』だった。公開日は春休みが終わってからで、配給収入は5.9億円と『風の谷のナウシカ』を大きく下回ったが、キネマ旬報の「日本映画ベストテン」第1位など、各種日本映画関係の作品賞を獲得。
今も昔もこの国で映画館に足を運ぶような輩は8割方、田吾作だろう。
だが・・・・
>キネマ旬報の「日本映画ベストテン」第1位
分かる輩は分かっていた。
ちなみにナウシカもキネ旬は1位に選出している。
トトロは実際に映画館に足を運んで観に行って大いに楽しんだのだが1988年の私にそれ以上の衝撃を与えたのはこの映画である
チャールズ・チャップリン MASTER OF COMEDY DVD-BOXクリエーター情報なしIVC,Ltd.(VC)(D)
NHK総合で放映されたチャップリン特集である。
大分古い映画だったが実に面白かった。
子供だったってのもあったろうが今でも十分楽しめる。
もう1本もテレビ放映だが
スタンド・バイ・ミー コレクターズ・エディション [DVD]クリエーター情報なしソニー・ピクチャーズエンタテインメント
この映画は1986年公開だがテレビで放映されたのは1988年だった。
だが当時の私に最も大きな衝撃を与えたのはチャップリンでもスタンド・バイ・ミーでもない。
この映画である。
バック・トゥ・ザ・フューチャー 【Blu-ray ベスト・ライブラリー100】クリエーター情報なしジェネオン・ユニバーサル
正確には1988年ではなく1989年2月5日にテレビ朝日開局30周年記念番組として放送されたのだが1988年度放映である。
我々にとってマイケル・J・フォックスは既にテレビでお馴染みの人だった。
やはり1988年からフォックスが出演するドラマ「ファミリータイズ」が放映されていたからである。
その下地があったからもあるだろうがこの映画の面白さは正直言って尋常ではなかった。
また大そうな表現になってしまうが
空前絶後
と言える。
これに関しては私だけではない!
平均点ベストランキング(レビュー30人以上)
>1 バック・トゥ・ザ・フューチャー (1985年) 8.99点 Review786人
ヤフー!映画 作品ユーザーレビューランキング(総合)
こちらは5位だがレビュー総数等踏まえたら実質的にNO1だろう。
この映画、日本での評価が滅茶苦茶高いのだがなぜだろうか?
映画の完成度の高さは言うまでもないがそれ以上の’要素’がこの国だけにあった。
それこそテレビ初放映時の声優陣に他ならない。
>素晴らしいのは画質だけではありません。
>テレビの洋画劇場世代には嬉しい、マーティー:三ツ矢雄二、ドク:穂積隆信によるTV放映版の吹替が収録!
一流の声優陣による息の合った吹き替えによりこの映画の’リアリティ’は劇的に向上しアメリカの話なのに滅茶苦茶身近な話になったんだろう。
そう、私は歌番組だけでなくテレビの洋画劇場の類もほとんどチェックしていた。
お小遣いなんてもらってなかったから自分の意思で映画館なんて行けなかったから。
NEC製のそれもたった14インチ型のブラウン管テレビ・・・
その中で繰り広げられる
物語
それが当時の私の全てだったのかも知れない。
なぜならその物語は全て素晴らしいクォリティを誇っていたから。
だがそんな「素晴らしき日々」も長くは続かなかった。
〜〜〜〜
昭和天皇が崩御されたのは1989年の1月7日である。
実は1988年に入ってから陛下の体調は思わしくなく秋口に入ると日本中ある種の自粛ムードが漂っていた。
四六時中テレビ画面にテロップが入るので小学生でも理解できる話だった。
にもかかわらず1988年のテレビ界はこれほど活気があったのである。
新しい元号は平成に決まった。
昭和から平成へ。
1988年から1989年に変わっただけだ。
一体全体何がそれ程変わったと言うのだろうか?
テレビ界だがNHKの大河ドラマは「春日局」になった。
徳川家光の乳母の話だが、二人に縁がある川越市生まれの私でもこのドラマを楽しむには大いに無理があった。
平均視聴率は、大河ドラマの歴代3位である32.4%を記録したが1位の独眼竜政宗や2位の武田信玄と比べるのは酷だろう。
日曜日の朝の番組攻勢において私が最も楽しみにしていた「じゃあまん探偵団魔隣組」の次は『魔法少女ちゅうかなぱいぱい!』が始まったのだがこれもまた主役は女性である。
だけでなく・・・最もメンタル的にデリケートな10歳前後の男子にとってこの番組のタイトルだけで赤面もんだった。
元々この枠は1981年放映の『ロボット8ちゃん』に端を発する石森章太郎原作の「東映不思議コメディーシリーズ」であり基本的には男子枠だったはず・・・
だがメイプルタウン物語をビックリマンで駆逐したことが祟ったのか手痛いしっぺ返しを食らうことになった。
その後、この枠は女子枠になり二度と奪還することはならなかった。
「じゃあまん探偵団魔隣組」を最後にプロデューサーだった平山亨と言う人が去ってしまったのも一因と思われる。
だがこの枠は決して侮れない!!
>現在、休日の朝が「第二のプライムタイム」と呼ばれる程になった要因は、このシリーズの成功がきっかけである。実際、このシリーズ開始の1981年以降、フジテレビが各局視聴率1位となり、シリーズ終了の1993年には視聴率第1位を日本テレビに明け渡してしまったという奇妙な逸話が残っている。
1980年代〜90年代初頭は「フジテレビの時代」だったのだがある意味でその象徴だったのである。
『電脳警察サイバーコップ』は東宝制作の異色の特撮だったが不発に終わり、1989年4月12日に放映時間帯が変わり7月5日には終了してしまった。
次番組は『機動警察パトレイバー』だが特撮からアニメに戻ったし時間帯も水曜17:00〜だった。
実は『電脳警察サイバーコップ』だけは私はそれ程好きという訳ではなかった。
映像が35mmのフィルムではなく無機質なビデオ録画だったからである。
昭和から平成へ、それが何を意味していたのか?
簡単に言えば
女性の時代になった
のである。
それは昨年刊行された私、大激賞のこの書籍にも書かれている。
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのかクリエーター情報なし新潮社
>昭和は男の時代であった。しかし、平成は間違いなく女性の時代である。
つまり、「1988年こそ日本テレビ史上最高の年だった」と私が主張しこのように沢山番組を挙げてもほとんどの女性は賛同しまい。
と言うより昭和の時代、テレビ番組の多くは男性それも子供向けに作られていたのが真相である。
だが・・・平成に突入するとあらゆる分野で「女性向け」コンテンツが増加していく。
例えばアニメだが
1989年のアニメ
>YAWARA!
>らんま1/2
確かに人気漫画だがどちらかと言うと女の子向けである。
この流れは1990年1月に放映がスタートした「ちびまる子ちゃん」の爆発的ヒットで決定的になる。
>番組最高視聴率は1990年10月28日放送の39.9%で、歴代アニメ視聴率第1位。関西地区での番組最高視聴率は1990年10月14日放送の37.8%。
1989年に公開された宮崎アニメは
魔女の宅急便 [DVD]クリエーター情報なしブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント
であり前作
となりのトトロ [DVD]クリエーター情報なしブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント
よりもより女の子目線になっている。
まぁ第一期「ちびまる子ちゃん」も「魔女の宅急便」も結構好きで高く評価してるんだが・・・・
つづく